YOKO's Monologue

気まま女子大生の徒然備忘録

YOKO's Monologue

わたしたちはなぜひとりでいくのか

「意味がわからない!」

「楽しいのそれ?」

 

私が一人で海外や国内旅行に行くと言ったらまあ驚かれる。

えーいっぱい行ってる人いるじゃん

と思うのだが。

 

彼女たちいわくおいしいものや美しい風景、感動する体験を

誰かと共有できないことが寂しいということだ。

まあよくわかる。

 

旅行というものが伴侶と同じ特別な空間、時間をともにすることで

(その特別な空間、時間自体が目的の場合もある)

思い出を作るということに意義があるというのなら、

 

ひとり旅の意義ってなんだろうなあ。

私はなぜひとりでいく?

 

周りの男たちは

自分の成長のため、単純にかっこいいから

という理由で世界を放浪していた。

未開の地への冒険は男のロマンであるらしい。

 

一方、女友達は

ひとりが気楽だからとか

ひとりで知らない街を歩いている自分に酔える

ということも言っていたなあ。

 

男女関係なく、誇らしい自分に出会えるものなのかもしれない。

 

では私の場合どうだろう。

ひとりで飛行機に飛び乗る場合はたいてい目的があった。

単純にその目的の魅力が強すぎて

それを誰にも共有することなく

情熱をもったまま向かってしまうのが私かもしれない。

 

でも気づいたらひとりであるパターンとは別に、

「ひとりで」行きたいという欲求で旅たつこともある。

それはきっと

ひとり×見知らぬ土地 という刺激

セーフィテーゾーンを抜け出しちゃう自立した自分

を求めているからだなあ。

 

まあ要はそんなことしちゃう自分に酔ってるんです。

好きなんですね、そんな自分が。

 

最近は

ルックスで保守的安定志向的キラキラ系女子に

捉えられがちな私で

客観的イメージと本性に

ギャップがあるということがわかってきたところだし

そんなんじゃねえよ!

どこでも一人でいっちまうよ!

という自分に会いたいんですね。

 

二人以上の旅行だとその関係性のためにエネルギーを費やすけど

自分一人だといやでも自分の行きたいところしたいところ

をしないといけなくて

ベクトルが自分に向くんですね、

そいういう意味で自分探しの旅とか成り立つのかもしれないけど

探すというより

なりたい自分になりにいくというのが私が

ひとりでいく理由かなあ。

 

すべての人がなりたいと思う像がばんばんひとり海外行っちゃうとかじゃなくて

家にいたいとか、みんなでわいわいしたいとかもあると思うけど

でも

何にもとらわれずに自分が好きなものを好きって言える人とか

やりたいことを堂々とできている人が

眩しく見えるし。

 

結局自分がどう生きるのか決めるのって自分ひとりじゃないですか。

なにか他人の影響や環境があったとしてもね。

だからやっぱり人生って旅なんだよなあ。

あ、ありがちな結論にたどり着いてしまった。

 

まあひとり旅っていいよねって話でした。

 

 

 

 

 

リコとリタ

あるところに

大きな夢を持つハツラツとした女の子、リコちゃん と

目立つことはなくても心優しい男の子、リタくん がいました。

二人は正反対の性格でありましたが、

兄弟のようにいつも一緒のなかよし。

 

 

・・・・・・・・・・・・

 

って感じで利己と利他を擬人化したものがたりとかできないかなって

今思った。

結局どちらかだけじゃだめで、二人の間で考えに相互作用が生じて

利己と利他が統合されていくという話。なんつって。

えほんとかでできそうじゃない?

 

うん、それだけ。

 

 

 

 

ジコチューで何が悪い

 


自分のことだけ考えて物事を行う人は「自己中(心的)」と言われる。

周りの目線関係なしに自分自身に満足することやその行動を「自己満(足)だ」と言う。


損得勘定なしに誰かのために動くことが美徳とされる。

 そうか、自分は置いておいて相手を思いやればいいんだな。


いやでも、なんだか最近は

「自分らしさの探求」「好きなことで生きよう」「意思を貫け」

とかいう言葉がやたらあふれる。

不協和音でいいじゃないか、という歌もある。


結局どうしたらいいんだろ。

 

でも私は、「誰かのために」なんて生きられないと思うのよね、誰だって。


人が幸福を感じる時って、

他人に貢献できて自分の価値が発揮できた時だってアドラーさん言ってた。

だからどんなお金持ちも隠居することなく働き続ける。

 

その人を助けること、その人の笑顔が見たいと自然に思うことは誰にでもある。

その状況を望むのは、その人ではなく私なわけであって。

それを達成することで「確実に」気持ちを満たされるのは相手ではなく、

私なわけであって。

まあこれは愛と呼ばれるやつなんですかね。

 

もしかしたら、これは限られたシチュエーションで起きるものかもしれない。

けど、人の幸せは他人への貢献であることはどこでも変わらないとしたら。

 

仕事の場面で考えてみる。

クライアントに対して全く求められていないこうあるべき!な提案をしたとする。

だいたいこういうのは、

「よかれと思って」やることは結局は自己満(足)でしかない、と片付けられる。

 

でも例え、相手の意向を全く無視していたとしても、

「よかれと思って」は本当に「よかれ」と思ってるわけであって。

「こうあるべき!」にはそうなれば相手にいいことがあるという思いがあるんです。

 

本当に相手が求めているものを探して、見つけて、与えて、

それで得られる貢献感っていかがなものか。

ほら、これが欲しかったんだろうって、やってやってる感が出ないんでしょうか。

いいヒモになってめちゃめちゃな依存関係にならないんでしょうか。

そもそも相手が目に見えないところで本当に求めているものを

見つけ当てることってできるんでしょうか。

 

自分の幸福感のためだとしても、他人への貢献感が必要条件ならば

相手に「こうなってほしい」「これを伝えたい」「これをわかってほしい」

という自己満な思いでも

それが絶対相手のためになると信じている。

 

だから、私はジコチューでジコマンでいいと思うんだ。

 

思い、信念はジコチュー、ジコマンでいい。

 

ただ行動はそれじゃいけない。随時修正していかないといけない。

 

ウガンダにいた時も、だいぶ自己満な「私はこうしたい!」という考え方で動いていた。

でも思いは常に、大好きな村の人のため、家族のためと思っていたし、

私の目指すものが村の人と違う知った時は活動内容や活動の仕方を変えた。

 


ここまでで話しているのは、

「それなりに大切な相手」と「自分」の2つだけのアクター間の関係の話。

 

でももっと人間関係は複雑で、「相手」というのが複数いれば、

大切な相手とどうでもいい相手もでてくる。

例えば、会社に貢献するために、

やたらめったら押し売りセールスしちゃう営業マンとか。

セールスする相手は自分の得のための相手でしかない。

そもそも他人なんてどうでもよくて、自分さえよければという人もいるかもしれない。

 

そういう人たちこそ、ジコチューでいいと思う。

 

もう十分自己中だろ、と思うかもしれませんが、

彼らは、自分の幸福感を得ることに真剣に向き合っていない。

 

会社から数字だけで評価される営業マンの価値は、本当に彼の価値なんでしょうか?

自分さえよければという人は孤独ですよね。

自分の意思を通せる環境に、自分の権威に価値を感じているだけではないですか?

 

本当に幸せですか?と聞きたい。

自分にできることで一人でも多くの人のためになれた時の幸福感はとてつもないもの。

どうでもいい人がいるかもしれない。けど、

自分の幸せのためにと思えたら、貢献したい人は自然と増えるのではないかね。

 

「情けはひとのためならず」ってあるけど

これの意味ってそういうことだと思うんです。

 

他人への貢献は手段でいい。ゴールは自分のため。

でも自分のためだからこそ、本気で他人に貢献できると思うんですよ。

 

これまで、社会で起こったイノベーション

最初はイノベーターの自分本意な欲求からだった。

 

SONYのウォ-クマンが生まれたのだって、

IPhoneというスマートフォンが生まれたのだって、

全部彼らの「自分がほしい」から始まった。

絶対使えばいいものだという信念が顧客に共感し、

革命的な流れを生んだ。

 

純粋な「誰かのために」なんて存在しない。

 

結局みんな求めているのは自分の価値を認識する「何かいいこと」。

その「何かいいこと」をお金とか権力とか地位とかしょーもない指標にしないで

自分の幸福感にして、それを真剣に求めれば

その結果自然に周りの人が幸せになるんですきっと。

 

もっともっとジコチューにジコマンに生きよう。

 

 

 

 

 

Instagram

 

 

「インスタ映え」「フォトジェニック」

最近よく聞く言葉です。

Instagramという写真を共有するSNS

向いた景色や商品、食べ物などを形容する言葉。

 

「インスタ映えするビーチ!」

「フォトジェニックなドリンク!」

 

 

だからあ???

 

もうなんだろ、もやもやする。笑

 

食わず嫌いなわけじゃないんです、

数ヶ月前まではインスタやってたし。

 

今回はこのインスタに対する嫌悪感を

きちんと言語化しとこーと思う。

 

 

インスタはウガンダの写真を共有するために属してた村のグループ名でアカウントを作って始めた。

 

日本に帰国して東京にあるモスクに行った時に、あまりにもステキな写真が撮れたから

こんな場所あるよ、行ってみてね!という

思いからインスタにモスクの写真をのせた。

それからアカウントを自分用にして利用し始めた。

 

が、次第にインスタに流れる空気を察するようになる。

どの写真をインスタに載せるのかという一定のラインがあるような気がした。

だいたいこんな感じ。

・ビジュアルの美しさ(顔の盛れ具合、景色)

・流行、話題、宣伝

・よい経験(リア充感、稀有な事象)

 

よくあるインスタ批判としては、

自分の生活を無理して美化してアピールするけど

実態はそれほどリア充じゃないというもの。

 

まあそれも大いに共感。

ただ、私が今回言いたいのはそこではない。

リア充アピールしたいやつはしておけ。

 

上でいう流行だったり、本当に共有したい経験だったりをシェアする人がいる。

それは有益な情報である。

彼らはインスタに使われることなくうまく利用している。

 

問題はビジュアル重視になってしまったインスタの風潮。

 

ここで写真というものを考えたい。

私の知り合いに数人ほど、インスタをうまく利用している人の例として、

写真が本当に好きで自分の日常や旅の記録を写真をメディアとして載せている人がいる。

 

写真というのは、世界のほんの一部で、

その人にしか切り取れないも。

どうしてその瞬間、その切り取り方をしたのかにストーリーが現れる、と思ってる。

彼らの写真は本当に素敵でそのストーリーを感じるのが好きだった。

 

ただ、情報としては、私は写真を信用していない。

ほんの一部でしかないことには変わりない。

何度旅行雑誌やグルメサイトで騙されたことか。

(だからもう旅行行く前にガイドブックは買わない)

 

少しでもよく見せようという目的で

都合よく切り取られた写真、さらに加工なんてされた写真が溢れすぎている。

 

それがインスタに氾濫している。

そしてそれが評価されている。

 

今は社会側が、

インスタ映え、フォトジェニックとして

切り取られる前提の風景や商品、空間を持ち上げて

インスタにあわせた作りをするようになっている。

 

そんなの万人がそこを撮っても同じなんだから情報として無意味であるし、

写真としての醍醐味もない。

 

記録として撮るのはわかるけど、

シェアしてこそ意味があるものが「インスタ映え」の写真だから

シェアしてこんなに素敵な場所に行ったと素敵な生活をしているというアピールをする手段になるのだろう。

 

インスタ自体は本当にいいサービスだと思ってた。

それぞれの切り取った写真をシェアしてストーリーをシェアするのがきっと

本来のInstgramであったはず。

いつの間にか、ビジュアル重視になり、

それにあわせたビジュアルを提供しはじめた社会に疑問しかないのです。

 

何もしなくても「美しい」と感じる瞬間や空間、ものは

たくさんあるはずなのに、

みんな鈍感になっちゃったんですかね。

そんなに作らないと「美しい」じゃないのか。

そんなにビビットでカラフルな単純なものだけが「美しい」んだろか。

 

むむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

化粧はマナーか?

一ヶ月間ノーメイクで過ごすと言う人の記事を見た。

なぜ女性は素顔でいてはいけないのか?という

男女平等の考えが根幹にあるようだ

 

あなたはなぜメイクをする?

そう問われて考えた

 

自信を身にまとうため。

すっぴんで外に出た日なんて

コンビニに行くだけでも顔を上げて歩けたもんじゃない

 

化粧ノリのいい日はしゃんと胸を張って

流行りのあのお店にも飛び込んでいけそうな気がする

 

でもそれは私を判断する相手ありきの自信で

自信の基準は世の中だった。

 

ウガンダにいた時は日焼け止めくらいしか

塗らずいたけど平気だった。

そもそも異なるところが多すぎたのもあるけど。

 

その環境でも日本人に会う時は、多少なりとも、まあ眉毛はかいた。

すっぴんでも許される環境でありなごら

少しでもいい自分を見て欲しかったからかね

 

化粧はマナーとは一度も思ったことはないが、日本人の持つ美しい基準に沿うように

メイクをしていたのかもしれない

よりよい自分を見せて、それが自信になる。

 

だからといってすっぴんに自信を持てと言われて素直に頷ける人はいないだろう。

それに、私は実は自分のすっぴんも好きだったりする。

もう少しいい自分になりたくて、世間に通用する自信がほしくて鏡に向かうのだ。

 

男女平等の観点もわかるけど、化粧をファッションの一部として

楽しんでいる女性は多いと思う。

 

ただ、強制されるような世の中は良くないと思うし、

世の中基準の自信のためだけに化粧の手段に頼る女性もいるかもしれない。

 

彼女たちが自然と自分の素顔を愛せるような

空気がでてくればいいのかなって。

 

私の大好きなアイドルがいるのだけど、

彼女たちはよく生放送で休憩中とかに

ファンと交流するビデオを発信する

 

メディアに出てくる化粧ばっちりな彼女とは違い、

ノーメイクやパジャマ姿でうつることもある。

 

メイクをしないと一重になる子やカラコンを公言している子もいて、

彼女たちはありのままを隠さないし、ファンもそのすべてを愛している。

 

アイドルというプロとしてそこまで見せすぎるのはいかがなものか

という声もあるかもしれないが、

私はこれこそ世の女性や、記事を書いてるあの人が求めている世界なのではと思った。

 

世の中の人全員が女性がすっぴんでもいいと思えと言っているのではなくて、

化粧して「女装」した姿が私たちのデフォルトではないということを知ってほしい。

それが無言の圧力になっているのかもしれない。

 

あなたの大切な人には素顔があってあなたがそれを愛しているように、

あなたの部下にも友達にも誰にもあるってこと。

そう思える人が増えたら、女性にとっても化粧は重荷ではなく、

ただのファッションの一部として楽しまれるんじゃないかな。

 

 

 

ひとりごと 自虐と愚痴と自己分析

愛ってなんなんですかねえ

 

ここ半年ずっと抱えている悩みである

私はたぶん恋人を愛せていない

 

両親にまで聞いた。

なんで結婚したの?

何がそうさせたの?

 

母親は照れて、父親はトイレに立ってしまった様子を見て

心からうらやましいと思った。

 

大学生時代に出会って、数年間の遠距離社会人時代をこえて

交際10年経て結婚した私の両親。

今でも仲良しで愛し合ってるのがもう、そりゃもうわかる。

 

ちょっと前まではわたしも自然とそうなるもんだと

大学に入ればそんな人と出会えるんだと思ってたんだけどなあ

 

なかなかねえ難しいのよねえ

 

好意を向けてくれる人はそれなりにいるし

平均交際年数は3年と一度付き合うと長いし

「愛される」経験はしているのだけど

 

愛せたことってあるかしら。

 

私のなかでは愛ってなんか献身的なもので

自己犠牲が伴うものって感じなんだけど

なんだかんだ自分が大切だから

そんな女になってたまるかという意地があるのですわ

 

恋愛至上主義な友達はいつも苦手だったし

きみのことがすきでー狂うーみたいな

JPOPに共感したことないし

 

「私と仕事どっちが大事なの?」って

聞く女も嫌いだし

「君のために働いてるよ」って

答える男も嫌いだし

それに喜ぶ女も嫌いだし・・・・(個人の意見です)

 

それぞれ自立した人生を持つけれど方向の似ている2人が

ともに生きていくのが理想なんですね、私の

私のことは優先順位一番でなくていいし、私も常に一番にはできない

ここらへんの恋愛感はとても大切にしてて

今も実現できているとは思う

 

ただ、それは恋愛なのか?

というのが最近の疑問

 

愛されているとは思う

けど愛せているのかな

 

今まで付き合った人は2人。

最初の人は私が告白して付き合ったけど

嫌われるのが怖くてだいぶ長いこといい子ぶってて疲れた。

ひどく傷つけて別れた。

 

絶対に今度こそは円満なカップルになるぞと息込んでるとき

今の彼に出会った。別に可もなく不可もなくな人だった。

 

半年ほどデートを重ねてああなんかこのままでいいなって思ってたとき

私の誕生日に合わせて告白してくれた。

寒空の下ずっと待ってたんだって。

Jpopの歌詞か。

いやそれが素直に嬉しくて

「こんなに愛してくれるなら」と付き合い始めた。

でもなぜだか同じ結果になりそう。

なかなか自分のことが話せない。とても距離のある二人になってしまった。

全部私のせいなんだけど。

 

愛されることばかり自然に重視して

相手に嫌われそうなところは自然と見せないようにしてた。

 

自立した二人ではあったけど

わたし親友みたいなカップルも理想なんだよね。

 

それとはほど遠く。

愛されることにかまけて愛せてた自信が全然ない。

 

自分を愛せない人は他人も愛せないって言うけど

それも一理ある。

他人の愛で自己肯定感を補おうとしてるところは認める。

 

でも自分を愛せても本気で誰かを愛せる自信はないなあ

 

JPOPの歌詞みたいに、メタファーみたいに、

恋は落ちるものでクレイジーになって泣いて

そんな恋愛ほんとうにあるんでしょうか

それともそうじゃないものは恋愛じゃないと洗脳されてるだけなんでしょうか

 

さっき雨にあう音楽を探してDヒッツ(ドコモの音楽聞き放題アプリ)を見てたら

女子大生に響く等身大の LOVE SONGー大好きが止まらない特集ー

というプログラム(テーマごとに様々な曲がリストになっている)があった。

 

女子大生だからってそんなにみんな大好き!な恋してるんですかね

今若者恋愛離れしてるじゃないですか

たしか6割だかが経験なしとか。

そのうち4割は恋人いらないだとか。(うろおぼえ)

 

あんまりあるべき恋愛を押し付けずに

恋愛がわからないワカモノに寄り添ったラブソング(といえるのか)とかないんですかねえ

 

話がそれた。

きっとかわいそうな人なんでしょうね、私。

 

好きになった人がいないわけじゃないのよ

ただ、憧れで終わらせてしまうというか。

憧れと好意のちがいは傷つく覚悟があるかどうかだって。

傷つきたくないんですね。たしかに本気でぶつかったことない。

 

はあ、ディスりながら憧れてるんです、Jpopの歌う恋愛に。

うらやましい、本気で泣いて悩んで傷ついて。

ほんとにあるのか知らんけど。

 

理想の恋愛観をかかげつつなんも努力してない。

運命の人なんて育てていくもんだってわかってるのに

運命の人の出現をどこかで信じてる。

傷つけあってさ、めんどくさくても作っていくのが恋愛なのにね、

めんどうなんだよね、今どきのワカモノらしいこと言っちゃうけど。

 

本心はただ傷つきたくなくて

恋愛なんかに振り回されるのなんてださいし

私にはめざすところがあるの!という自分が好きなだけ。

 

自己実現とひととくくりにすれば人をちゃんと愛せる自分なりたい

というのも私のめざしたいところだなと

やっと

今になって

気づいたのであります。

 

遅すぎた。

間に合った、のか。

 

 

 

 

 

愛されるより愛したい

「愛されるより愛したいんだよね」

 

時々ぼやく人がいる。

なんだなんだ、散々モテてるけどいい人いないんだよねアピールか?

と前は思ってた。

けど、最近は自分もなんとなく共感することが増えて

悩みのようなけっこう重たい難題であることに気づいてきた。

 

なんだかかっこいいポリシーのようにも聞こえるけど

実際、実現できてる人ってどれくらいいるんだろう。

 

愛されるっていうのは

身内だったり他人だったりに自分の存在価値が認められ、求められ、自分の居場所ができること。

 

愛されたいという欲は人間誰しも持っているはずで

マズローの5段階欲求でいうと4段階目の内的に認められたい「承認欲求」に当てはまるもの。

そりゃあ万人に好かれないとしても自分を認めてくれる人はいてほしい。

 

愛したいというのはその上の「自己実現欲求」に属するものではないかなと。

ただ愛したいんじゃなくて、「愛されるより愛したい」。

愛されるために愛したいんじゃなくて、大げさに言うと愛されることがなくても愛するという無償性があるもの。

少なくとも自分は愛していたいという自己実現のひとつになるんじゃないかな。

 

ここで一度は頭によぎったであろう

kinki kidsの「愛されるより愛したい」の歌詞を見てみる。

 

「どうだっていいじゃんそんなこと

なんだっていいじゃんそんなこと」

おきまりの強がりを言っても

 

みちで拾ったチラシで紙ヒコーキ飛ばした

気持ちとは反対へ飛んでく

 

ギリギリの大人たちが積み重ねてるすべてのもの

壊さなきゃ新しい明日は来ない

 

愛されるよりも愛したい真剣で

いい加減で頼りなくてそんな僕だけど

悲しみの天使まだ迷うけれど

青い風に吹かれながら走り続けたい

 

現状に何かしらの不満がありながらどうでもいいふりをして過ごす。

でも行きたい方向というのは明確にあって、

そちらへは壊さないといけないし、ためらいもある。

 

この歌はいろんなシチュエーションが想像できるけど

「愛される」という他動的に作られた環境の中で

自分を殺して生きていてもいいのか

自分の思う方へ走り出したいっていう葛藤を感じる歌に聞こえた。

 

対象はなんであれ、愛するという行為は

強い決意のもと生まれるものであって

最高の自己実現なんではないかな。

 

ただそれには犠牲も伴う。

2番の歌詞を見てみる。

 

「泣いたっていいんじゃつらいなら

逃げたっていいんじゃつらいなら」

恥ずかしいことじゃない...だけどね

 

シャツを脱ぎ捨てた胸

なんだか急に空っぽで

鏡に映る僕は誰だろう

 

初めからかっこのいい

おとなになんてなれないから

怖がらずそのドアを開ければいいだけ

(中略)

扉の向こうに光る空はあるの

わからなくてつかめなくてそんな僕だけど

悲しみの天使まだ迷うけれど

青い風に吹かれながら走り続けたい

 

愛することの対象が人間だった場合

愛してくれる対象と愛する対象が必ずとも同じとは限らない。

愛することを決意すれば自分へ向けられる愛は実りのないものになる。逆も然り。

当然、愛した分の見返りを求めてしまうもので、

無償の愛なんてむなしいったらありゃしない。

たいてい一方的に愛し続けるというのは不可能。

 

2番の歌詞は

愛することを決意したことで、見返りのないつらさや

自分にむけられた愛が消えたことによる虚無感

この先本当になりたい自分になれるのかという不安

を表している気がした。

 

それでも扉開けちゃうんですねえ。

 

いやあなんて深い歌だったんだろう。

数時間前までサビしか、いやワンフレーズしか知らなかったから衝撃。

 

愛されるより愛したいというのはどれだけ

勇気のいる自己実現欲求かというわけです。

 

キンキさながらにこのフレーズをつぶやく人はここまで大げさじゃないにしても

それなりに承認欲求は満たされ、さらなる自己実現を目指す、実は崇高な人なのかもしれませんね。