YOKO's Monologue

気まま女子大生の徒然備忘録

YOKO's Monologue

Instagram

 

 

「インスタ映え」「フォトジェニック」

最近よく聞く言葉です。

Instagramという写真を共有するSNS

向いた景色や商品、食べ物などを形容する言葉。

 

「インスタ映えするビーチ!」

「フォトジェニックなドリンク!」

 

 

だからあ???

 

もうなんだろ、もやもやする。笑

 

食わず嫌いなわけじゃないんです、

数ヶ月前まではインスタやってたし。

 

今回はこのインスタに対する嫌悪感を

きちんと言語化しとこーと思う。

 

 

インスタはウガンダの写真を共有するために属してた村のグループ名でアカウントを作って始めた。

 

日本に帰国して東京にあるモスクに行った時に、あまりにもステキな写真が撮れたから

こんな場所あるよ、行ってみてね!という

思いからインスタにモスクの写真をのせた。

それからアカウントを自分用にして利用し始めた。

 

が、次第にインスタに流れる空気を察するようになる。

どの写真をインスタに載せるのかという一定のラインがあるような気がした。

だいたいこんな感じ。

・ビジュアルの美しさ(顔の盛れ具合、景色)

・流行、話題、宣伝

・よい経験(リア充感、稀有な事象)

 

よくあるインスタ批判としては、

自分の生活を無理して美化してアピールするけど

実態はそれほどリア充じゃないというもの。

 

まあそれも大いに共感。

ただ、私が今回言いたいのはそこではない。

リア充アピールしたいやつはしておけ。

 

上でいう流行だったり、本当に共有したい経験だったりをシェアする人がいる。

それは有益な情報である。

彼らはインスタに使われることなくうまく利用している。

 

問題はビジュアル重視になってしまったインスタの風潮。

 

ここで写真というものを考えたい。

私の知り合いに数人ほど、インスタをうまく利用している人の例として、

写真が本当に好きで自分の日常や旅の記録を写真をメディアとして載せている人がいる。

 

写真というのは、世界のほんの一部で、

その人にしか切り取れないも。

どうしてその瞬間、その切り取り方をしたのかにストーリーが現れる、と思ってる。

彼らの写真は本当に素敵でそのストーリーを感じるのが好きだった。

 

ただ、情報としては、私は写真を信用していない。

ほんの一部でしかないことには変わりない。

何度旅行雑誌やグルメサイトで騙されたことか。

(だからもう旅行行く前にガイドブックは買わない)

 

少しでもよく見せようという目的で

都合よく切り取られた写真、さらに加工なんてされた写真が溢れすぎている。

 

それがインスタに氾濫している。

そしてそれが評価されている。

 

今は社会側が、

インスタ映え、フォトジェニックとして

切り取られる前提の風景や商品、空間を持ち上げて

インスタにあわせた作りをするようになっている。

 

そんなの万人がそこを撮っても同じなんだから情報として無意味であるし、

写真としての醍醐味もない。

 

記録として撮るのはわかるけど、

シェアしてこそ意味があるものが「インスタ映え」の写真だから

シェアしてこんなに素敵な場所に行ったと素敵な生活をしているというアピールをする手段になるのだろう。

 

インスタ自体は本当にいいサービスだと思ってた。

それぞれの切り取った写真をシェアしてストーリーをシェアするのがきっと

本来のInstgramであったはず。

いつの間にか、ビジュアル重視になり、

それにあわせたビジュアルを提供しはじめた社会に疑問しかないのです。

 

何もしなくても「美しい」と感じる瞬間や空間、ものは

たくさんあるはずなのに、

みんな鈍感になっちゃったんですかね。

そんなに作らないと「美しい」じゃないのか。

そんなにビビットでカラフルな単純なものだけが「美しい」んだろか。

 

むむ。